安生洋二さん(元プロレスラー)
高田延彦率いるUWFでプロレスデビュー。90年代のプロレスブームの際は切り込み隊長として他団体のマットに参戦。ビッグマウスぶりから“Mr.200%”とも呼ばれた人気レスラーが安生洋二さんだ。その後、格闘技イベント「ハッスル」「PRIDE」でも活躍し、2015年3月19日に引退。さて、今どうしているのか?
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「いやー、新型コロナには本当に参ったよ。ウチの店も緊急事態宣言が出た翌4月8日から休業して、再開したのが6月1日。1カ月と3週間以上も休んじゃったから、まだペースがイマイチ掴みきれてないんだよね」
東急田園都市線・用賀駅から徒歩4分。住宅街の飲食店ビル2階にある串焼き店「市屋苑」へ行くと、キャップをかぶった安生さんに迎えられた。
カウンターとテーブルで約60席の店内は、ログハウス風のウッディーな内装だ。カウンター上のラックには魔王をはじめ各種焼酎が40種ほどズラリと並び、入り口そばのクーラーに日本酒の銘酒が約10本。飲んべえのハートをガッチリとロックオンしてくる。
「ここはUWFインターの取締役だった鈴木健オーナーが98年にオープンしてね。俺は6年前から働いてるんだよ。オススメ? 備長炭で焼くネック(1本130円)、チーズネック(同150円)、牛ハラミ(同240円)がベスト3。俺が仕込みをして、じっくり焼くから間違いなく200%、いや、300%ウマイ。アハハハ」
休業前の客足は?
「減ったのを実感したのが3月後半ぐらいからで、4月に入って激減。10人を切る日もあったから、まあ最悪だったよ」
平日は近隣に勤めるビジネスマン、週末は家族連れの比重が増すが、ともに足が遠のいたと言う。
「感染拡大防止のためだから休業はしょうがない。でも再開したからといって、以前の売り上げまで回復するのは当分先じゃないかなあ。企業や大学生の飲み会需要が見込めないのが、一番の不安材料だね」
休業前はプロレス関係者が集まる店としてファンに知られていた。
「やっぱりUWFに縁があったレスラーが中心だけど、高田(延彦)さんは年に数回来るし、ほかにもちょくちょく顔を出してくれる。手がすいてれば、俺もフロアに出てプロレス談議したり写メ撮ったり、気楽な店だよ。今はできる限りの防止対策をしてるから安心して来て欲しいよね」
英語はペラペラだけどいじめられた
さて、1967年3月28日に都内杉並区で生まれた安生さんは、父親の転勤のため4歳から11歳までニュージーランドで過ごした帰国子女。
「それで英語はペラペラなんだけど、帰国直後は日本語が片言だったせいで、ずいぶんイジメられたなあ」
プロレスに目覚めたのは中学時代。後楽園ホールで初代タイガーマスクの試合を観戦して感動。さらに高校進学後は高田延彦に憧れ、迷うことなく卒業後にUWF道場の門を叩いた。
デビューは85年7月8日。87年には新日本プロレスのヤングライオン杯に出場するほど実力をつけていった。
一気に名を売ったのが94年12月のヒクソン・グレイシーとの一戦。ヒクソンvs高田戦の下交渉のため米・ロサンゼルスのヒクソン・グレイシー柔術アカデミーを訪問したところ、ヒクソン側は殴り込みと思い込んでおり、「予期せぬ果たし合い」(安生さん)になりKO負け。だが3年後にヒクソンvs高田戦が実現したのだから、ケガの功名とも言える。
翌95年からは新日本プロレスとの対抗戦へ。ビッグマウスに磨きがかかり、またオチャラケキャラがウケてプロレス大賞技能賞を受賞するなど、独自の路線で活躍。01年には天龍源一郎とのタッグで全日本プロレスの第44代世界タッグ王座を獲得してもいる。
その後、「ハッスル」「PRIDE」などのリングで大暴れ。エンターテインメント路線の立役者のひとりでもあった。
そして迎えた15年3月の引退試合。かつての盟友、高山善廣・山本喧一vs船木誠勝・鈴木みのる・菊田早苗の6人タッグマッチで30年間の現役生活にピリオドを打った。
「ケジメは大切だよ。俺はやり切ったから、もう復帰はない。コロナ騒動でちょっと遠のいたけど、いずれ独立したいんで、その時はまた取材に来てよ」
朗報、お待ちします
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200608-00000004-nkgendai-spo
6/8(月) 9:266/8(月) 9:26
配信
元スレ:http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1591587174/
5ちゃんねるの反応
試合内容もだが、試合前や試合後のコメントの出し方が試合を盛り上がってる
身体のでかい素人おじさんが目立ちたくてリングに立ちましたって印象
ボコボコにされた人か
またぐなよを引き出した大仁田
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